Thursday, December 15, 2005

[農暦11月14日] 三億円事件の頃

[農暦] 11月14日 [月齢] 13.1 小望月 [潮汐] 中潮 [勝間の天気] 快晴
三億円事件の起きた1968年頃、やはり気になる時期だった。わたしの記憶にいろいろなことが残されています。たとえば

・1967年 ロックグループ・ドアーズの「ハートに火をつけろ」
・1968年 東映やくざ映画「緋牡丹博徒」
・1969年 森進一の「港町ブルース」
どれもなんか意味合いみたいなものを持ってた・・・

The Doorsの"Light My Fire"はLPの輸入盤を原宿キディーランドで購入、今でも所有している。焦点の合わない目をもったボーカル、ジム・モリスンの写真はしばらく私の本棚に飾られていた。彼と再び出会うのは映画「地獄の黙示録」のなかで。

東映やくざ映画は絶頂期を終えようとしていた。正調やくざ映画から、シャに構えた企画へと変りつつあった。そんなときに出会ったのが、「緋牡丹お竜」の藤純子。館内で映画を始めから終わりまで録音、仕事場にもちこみ、朝から晩まで聴きまくり、ひんしゅくを買っていた。渋谷の映画館で上映されていたときには、最終日の最終上映に合わせて出かけ、翌日の上映用ポスターに張り替えられるときを狙い、「緋牡丹お竜」をいただいてきた。これもいまだ手元にある。

森進一の「港町ブルース」で、なかにし礼の作詞の実力を知る。大学同期のシンさんと語り合ったものだ。

”背のびして見る 海峡を 今日も汽笛が 遠ざかる あなたにあげた 夜をかえして 港 港 函館 通り雨”

はじめの一節 ”背のびして見る” という表現に痛く感動したことを覚えている。後で知るのだが、なかにし礼さんは北海道で幼少の一時期を過ごされたとのこと。北海道から本土を見るのに、函館山から「背のび」しなくても見える本土に、なにかを感じて書いたのかもしれない。

この歌のもう一つ、北から南に歌われてきた港は、最後は鹿児島で終わっていること。沖縄はない。

”女心の 残り火は 燃えて身をやく 桜島 ここは鹿児島 旅路の果てか 港 港町ブルースよ”

すでに沖縄を日本に返還するよう、日米で煮詰まっていたときのこと。沖縄では、独立か日本に帰属するかが熱く語られていたようだ。決定とともに沖縄返還の大きな事業の一つ、「沖縄海洋博覧会」の企画が始まり、私はその計画に参加、車で右側通行の道路を走り、1$のステーキランチを食した(当時は街中でもドルが使えた)。東シナ海は私のテーマになり、やがて東アジアへと、南へ南へ興味は移っていく。

六十年代、私のおもいはみなこのころにはじまったように思える。エッ?今の生き方と繋がらない?いや生き様は変っていないのです。

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